小 泉 親 彦 は 、 旧
毒
江 藩 士 小 泉 親 正 の 三 男 と し て 、 明 治 十 七 年 九 月 に 生 ま れ て い ま す 。 母 は 武 生 出 身 の や す で す 。 幼 く し て 両 親 に 死 別 し 、 祖 母 た ね ︵ 川 島 の 高 原 武 右 衛 門 の 娘 ︶ の 手 で 育 て ら れ ま し た 。 親 彦 は 、 明 治 四 十 一 年 十 二 月 、 東 京 大 学 医 学 部 を 卒 業 、 そ れ 以 後 、 軍 医 学 校 教 官 、 軍 医 監 、 近 衛 師 団 軍 医 部 長 、 軍 医 学 校 長 な ど を 歴 任 、 昭 和 九 年 に は 軍 医 総 監 と な り 、 同 時 に 陸 軍 省 医 務 局 長 と な っ て い ま す 。 そ し て 、 同 十 六 年 七 月 に は 第 三 次 近 衛 内
小
こ泉
いず み親
彦
ち か ひ こ
閣 の 厚 生 大 臣 に 就 任 、 同 年 十 月 の 東 条 内 閣 で も 留 任 し 、 十 九 年 七 月 の 内 閣 総 辞 職 ま で 厚 生 大 臣 で し た 。 親 彦 が 厚 生 大 臣 で あ っ た 時 期 は 、 ち ょ う ど 太 平 洋 戦 争 の 時 代 に あ た り 、 国 民 の 勤 労 総 動 員 ・ 戦 時 体 制 の 確 立 、 強 兵 健 民 対 策 ・ 結 核 撲 滅 な ど を 推 進 し て い ま す 。 同 二 十 年 九 月 、 戦 争 犯 罪 容 疑 者 と し て 総 指 令 部 か ら 出 頭 を 命 ぜ ら れ ま し た が 、 予 め 決 意 し て い た の か 、 自 決 、 そ の 生 涯 を 終 え て い ま す ︵ ﹃
毒
江 郷 土 史 ﹄ ︶ 。 こ の よ う に 、 親 彦 は 医 学 一 筋 に 生 き 、 厚 生 大 臣 に も な っ た 人 物 で す が 、 戦 争 と い う 歴 史 の 波 に ほ ん ろ う さ れ た 悲 劇 の 人 物 と も い え ま す 。 し か し 、
毒
江 出 身 の 偉 大 な 医 学 者 、 政 治 家 と し て 長 く 記 憶 し て お き た い と 思 い ま す 。 ま た 、 親 彦 は 語 学 が 得 意 で し た 。 学 生 時 代 に は 答 案 を す べ て ド イ ツ 語 で 書 い た の で 、 教 官 か ら 生 意 気 と み ら れ 、 席 次 が 二 位 に 下 が っ た と い う 逸 話 が 残 さ れ て い ま す 。
姉
妹
編
さ
ば
え
人
物
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